逸話一覧
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- 〈神余親綱〉天文21年(1552)、将軍義輝から御内書と太刀を拝領
- 〈神余親綱〉青苧交易の奉行として謙信の軍資金を支えた
- 〈神余親綱〉洛中に拠点を持ち、情報収集・贈答実務を差配した
- 〈神余親綱〉景虎自害後も抵抗を続け、天正8年(1580)に城内の内応者に討たれた
- 〈甘粕景継〉景勝の信任 — 上田衆出身の股肱の臣
- 〈甘粕景継〉甘粕姓の由来 — 景持とは別人・別家
- 〈甘粕景継〉白石城失陥 — 兼続書状が示す「攻撃6日前の不在」
- 〈甘粕景継〉江戸城桜田門普請の頭取 — 将軍家からの褒賞
- 〈柿崎景家〉柿崎家は御館の乱を越えて存続した
- 〈直江景綱〉為景・晴景・謙信の三代に仕えた宿老
- 〈直江景綱〉発給文書に見る実務官僚の実像
- 〈直江景綱〉関東出兵の間、春日山城の留守居を任された
- 〈直江景綱〉「委細直江に申すべく候」— 謙信の信頼
- 〈直江景綱〉お船は景綱の実の娘、兼続は「娘婿」
- 〈直江景綱〉婿養子信綱の横死と兼続の婿入り
- 〈直江信綱〉景綱死後の家督・奉行職継承
- 〈直江信綱〉乱後の論功行賞のもつれ——事件の温床
- 〈直江信綱〉お船の再婚と兼続の直江家継承
- 〈河田長親〉元亀2年(1571)、老父を近江から呼び寄せた
- 〈河田長親〉月岡野の戦いで斎藤利治に大敗した
- 〈河田長親〉謙信の死に際し出家して「禅忠」と号した
- 〈河田長親〉御館の乱で「はじめ中立」だった
- 〈色部勝長〉「血染めの感状」を謙信から拝領した
- 〈色部勝長〉謙信の出陣要請を一度断った
- 〈色部勝長〉旗紋相論 — 「白地に日の丸」の旗をめぐり訴えた
- 〈色部勝長〉本庄家中の内紛を12年にわたり調停した
- 〈色部勝長〉死後、謙信が色部氏の序列を本庄氏より上位にした
- 〈色部勝長〉為景を引退に追い込んだ上条の乱の一翼
- 〈北条高広〉二度離反しても謙信に許された
- 〈北条高広〉後北条氏が「喜多条」と表記して区別した
- 〈北条高広〉高広自身は「毛利」姓を名乗った
- 〈滝川益重〉峯城で秀吉の大軍に約3か月持ちこたえた
- 〈滝川益重〉峯城は武力では抜かれず、兵糧枯渇で開城した
- 〈滝川益重〉甲州征伐で武田勝頼を田野に追い詰めた
- 〈河尻秀隆〉織田信勝(信行)誅殺の実行役だった
- 〈河尻秀隆〉家康の使者・本多信俊を斬殺した
- 〈河尻秀隆〉三井弥一郎に討たれた
- 〈石川数正〉人質交換で家康の妻子を奪還した
- 〈石川数正〉三河一向一揆で宗旨を捨てて家康に付いた
- 〈石川数正〉天正13年11月13日の出奔そのもの
- 〈石川数正〉数正出奔で徳川軍制が武田流に改められた
- 〈石川数正〉松本城天守は数正・康長父子が造営した
- 〈榊原康政〉家康から「康」の一字を拝領した
- 〈井伊直政〉検証5 武田旧臣を率いて「赤備え」を編成した
- 〈井伊直政〉検証7 島津追撃戦で銃撃を受け負傷した
- 〈松平忠吉〉島津追撃戦で自ら斬り結び負傷した
- 〈松平忠吉〉家臣4名が殉死した
- 〈松平忠吉〉小袖の贈り物と「学問に励め」の手紙
- 〈松平忠吉〉家康への筍進上と細やかな根回し
- 〈松平忠吉〉能楽の秘伝を学んだ文化人だった
- 〈松平忠吉〉2歳で1万石の大名になった
- 〈結城秀康〉石田三成を護送し、名刀「石田正宗」を贈られた
- 〈結城秀康〉天下三名槍「御手杵」を持っていた
- 〈松平信康〉岡崎追放と幽閉の移送経路
- 〈平岩親吉〉家康が八男・仙千代を養子に与えた
- 〈平岩親吉〉水野信元父子の誅殺役を務めた
- 〈平岩親吉〉嗣子を立てず、遺領を徳川家に返した
- 〈平岩親吉〉徳川十六神将の一人に数えられる
- 〈大久保忠世〉松平信康を預かり、自刃に立ち会った
- 〈大久保忠世〉第一次上田合戦で大敗した
- 〈大久保忠世〉敵将・依田信蕃を匿って徳川に引き入れた
- 〈大久保忠隣〉初陣で敵将の首級を挙げた
- 〈大久保忠隣〉三方ヶ原の敗走で家康の側を離れなかった
- 〈大久保忠隣〉キリシタン取締りの最中に改易された皮肉
- 〈酒井忠次〉鳶ヶ巣山奇襲 — 別働隊の大将だった
- 〈酒井忠次〉「徳川四天王筆頭」
- 〈酒井忠次〉眼病で隠居し、京都で没した
- 〈本多正信〉三河一向一揆で家康に敵対した
- 〈本多正純〉【層(b)】実際の咎——11ヶ条詰問と追加3ヶ条
- 〈本多正純〉宇都宮城の大改修は行った(釣天井は無し)
- 〈本多正純〉由利5万5千石を固辞し、処分が加重された
- 〈本多正純〉家康臨終に侍り、日光造営を差配した
- 〈本多正純〉配所の過酷な待遇と13年の潔白主張
- 〈服部半蔵〉伊賀同心200人を預けられた
- 〈服部半蔵〉家康拝領の「鬼半蔵の槍」
- 〈服部正重〉兄正就は伊賀同心の「ストライキ」で失脚した
- 〈服部正重〉村上藩で「藩主一族並み」の厚遇を受け、29年仕えた
- 〈服部正重〉「服部半蔵家は幕末まで続いた」の実像
- 〈成瀬正成〉長久手の初陣で敵陣一番乗り
- 〈成瀬正成〉「家康の傍らに葬ってくれ」— 日光埋葬の遺命
- 〈奥平信昌〉500人で1万5千を防いだ
- 〈奥平信昌〉人質処刑 — 弟仙千代13歳・前妻おふう16歳
- 〈奥平信昌〉家康から名刀「大般若長光」を拝領
- 〈奥平信昌〉安国寺恵瓊を捕縛し、三成らの処刑を監督
- 〈菅沼定盈〉菅沼一族の三方分裂
- 〈菅沼定盈〉元亀4年3月の人質交換
- 〈菅沼定盈〉野田城夜襲奪回と城代討取り
- 〈菅沼定盈〉鳶ヶ巣山奇襲での役割
- 〈石川家成〉熱心な一向宗門徒でありながら、浄土宗に改宗して家康方で戦った
- 〈石川家成〉三備の軍制で西三河旗頭となり、酒井忠次と並び立った
- 〈石川家成〉掛川城主就任と同時に、西三河旗頭を甥・数正に譲った
- 〈石川家成〉甥・数正の出奔にも動じず、徳川家に残って信任を保った
- 〈石川家成〉74歳(数え)での大垣藩主復帰
- 〈石川家成〉死後、大樹寺塔頭・善揚院で荼毘に付された
- 〈石川家成〉叔父なのに、甥・数正のほうが1歳年上だった
- 〈青山忠成〉屋敷地拝領が地名「青山」になった
- 〈青山忠成〉秀忠の傅役を務めた
- 〈青山忠成〉「初代江戸町奉行」だった
- 〈青山忠成〉父・忠門は武田軍との戦いで討死した
- 〈青山忠成〉秀忠軍に従い上田城攻めに参加した