逸話一覧
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- 〈青山忠俊〉老職罷免・減転封・改易の処分そのもの
- 〈青山忠俊〉「寛永の三輔」と称された
- 〈阿茶局〉大坂冬の陣の講和交渉を担った
- 〈阿茶局〉「雲光院」の由来
- 〈阿茶局〉和子入内の「母代」を務め、従一位に
- 〈築山殿〉天正7年8月29日、佐鳴湖畔で死去した
- 〈山本勘助〉明治24年、「勘助は実在しない」と断じられた
- 〈山本勘助〉1969年、視聴者の蔵から実在の証拠が出た
- 〈山本勘助〉2008年〜、真下家文書が「複数世代の菅助」を解明した
- 〈山本勘助〉子孫は「晴幸」「道鬼」を伝えていた
- 〈高坂昌信(春日虎綱)〉命日はいつか — 三つの説
- 〈高坂昌信(春日虎綱)〉「高坂昌信」という名前自体が後世の産物
- 〈高坂昌信(春日虎綱)〉最後の仕事は上杉との同盟交渉だった
- 〈高坂昌信(春日虎綱)〉武田四天王で唯一、長篠後まで生き残った
- 〈戸田勝成〉小早川寝返り後、脇坂ら4隊の襲撃に抗戦
- 〈戸田勝成〉嫡男・戸田内記の討死と戸田家断絶
- 〈山路正国〉賤ヶ岳の直前、4月13日に柴田方へ寝返った
- 〈山路正国〉勝豊の代理として堂木山砦を守った
- 〈山路正国〉浮世絵では「山路将監満国」と名を変えられた
- 〈一柳直盛〉木曽川渡河の先陣と岐阜城攻めの戦功
- 〈一柳直盛〉前夜に川の深浅を測らせた
- 〈一柳直盛〉石薬師の点茶が宿場を生んだ
- 〈一柳直盛〉神戸城主35年の治績 — 城下拡張と石薬師寺再建
- 〈一柳直盛〉入部前の病没と髪塚の伝
- 〈一柳直末〉山中城攻めの先鋒として銃弾に斃れた
- 〈一柳直末〉約6万8000の大軍でも、落城は「半日」の激戦だった
- 〈一柳直末〉宗閑寺に敵味方の墓が並ぶ
- 〈一柳直末〉弟・直盛が家督を継いだ
- 〈一柳直末〉秀次が母らくに、ひらがなの知行宛行状を与えた
- 〈金森長近〉長篠・鳶ヶ巣山砦奇襲に参加した
- 〈金森長近〉本能寺で嫡男長則が討死、剃髪して「素玄」と号した
- 〈金森長近〉賤ヶ岳では柴田勝家方——だが秀吉に許された
- 〈金森長近〉飛騨攻略——姉小路頼綱を降した
- 〈金森長近〉高山の城下町を設計した——「飛騨の小京都」の原型
- 〈金森長近〉越前大野の碁盤目状城下町を築いた
- 〈金森長近〉80代で三つ目の町を作り、82歳で実子を得た
- 〈金森長近〉主君より17歳年長の「赤母衣衆」だった
- 〈姉小路頼綱〉「三木自綱」と「姉小路頼綱」は別人?
- 〈姉小路頼綱〉「中納言」「飛騨国司」を勝手に名乗った
- 〈姉小路頼綱〉信長に献じた駿馬 — 「御秘蔵斜めならず」
- 〈金森可重〉本能寺の変で義兄長則が討死し、後継者となった
- 〈金森可重〉飛騨平定で一軍を率い、姉小路頼綱を追討した
- 〈金森可重〉増島城築城と飛騨古川の町立て——白壁土蔵の原型
- 〈金森可重〉吉野の大花見——織部・遠州らと風雅の交わり
- 〈金森可重〉関ヶ原——江戸から飛騨へ駆け戻り、郡上八幡城を攻めた
- 〈金森可重〉現存最古級の国産火縄銃「喜蔵とりつき」
- 〈金森可重〉伊達政宗と和歌を詠み交わした
- 〈豊臣秀長〉草創期から秀吉の片腕だった
- 〈豊臣秀長〉中国攻めでの但馬・播磨平定
- 〈豊臣秀長〉四国攻め総大将——秀吉の援軍申し出を断った
- 〈豊臣秀長〉九州平定を決めた根白坂の戦い
- 〈豊臣秀長〉「内々の儀は宗易、公儀の事は宰相」
- 〈豊臣秀長〉「大和100万石」の実高は73万4千石
- 〈豊臣秀長〉統治困難の大和を治めた行政手腕
- 〈豊臣秀長〉蓄財家の顔——城に満ちた金銀
- 〈荒木久左衛門〉村重の尼崎移動後、有岡城を預かった
- 〈荒木久左衛門〉降伏交渉「尼崎・花隈を渡せば妻子助命」
- 〈荒木久左衛門〉妻子を人質に残し、300の手勢で尼崎へ
- 〈荒木久左衛門〉説得の失敗と「そのまま逃亡」
- 〈荒木久左衛門〉息子・自然(じねん)の処刑
- 〈荒木久左衛門〉なぜこれほど「わからない」のか
- 〈島津家久〉上洛して光秀・紹巴と交流した
- 〈島津家久〉「馬上で居眠りする信長」を見た
- 〈島津家久〉戸次川で豊臣先遣軍を壊滅させた
- 〈島津家久〉討った長宗我部信親の遺骸を返還した
- 〈菊池義武〉菊池氏への入嗣は「傀儡としての擁立」だった
- 〈菊池義武〉兄・義鑑との決裂と第一次挙兵(1534)
- 〈菊池義武〉菊池譜代を外し、鹿子木・田島ら国衆を登用した
- 〈菊池義武〉相良氏を頼った20年の亡命生活
- 〈菊池義武〉二階崩れの変後の再挙兵と隈本城奪還(1550)
- 〈菊池義武〉1531年、従四位下左兵衛佐に叙任された
- 〈駒井政武〉高遠頼継攻略の先陣を務め、福与城を落とした
- 〈駒井政武〉「甲州法度之次第」を起草した
- 〈駒井政武〉『甲陽軍鑑』にほぼ登場せず、武田二十四将にも入らない
- 〈湯浅五助〉吉継の首は敵に渡らなかった
- 〈鮎川盛長〉本庄繁長の乱で、鮎川氏は積極的に繁長討伐に参加した
- 〈鮎川盛長〉天正元年(1573)、春日山城の三つの郭の門普請を担当した
- 〈鮎川盛長〉天正5年(1577)『上杉家家中名字尽』に名を連ねた
- 〈鮎川盛長〉御館の乱で景虎方につき、景勝方の同族・本庄繁長と戦った
- 〈鮎川盛長〉天正8年(1580)秋、本庄・色部勢の攻撃を新発田重家の支援で撃退した
- 〈菅沼忠久〉三人衆の先導で、家康は遠江に入った
- 〈菅沼忠久〉家康は起請文と知行約束で三人衆を迎えた
- 〈菅沼忠久〉子孫が彦根藩士になった
- 〈保科正俊〉勝頼、28か条の「覚」で伊那防衛を指示
- 〈保科正俊〉「在城定書」17か条で息子の後見を託された
- 〈保科正俊〉「保科正之の父」は誤り
- 〈小山田昌行〉実名は「昌行」ではなく「昌成」
- 〈小山田昌行〉小山田信茂とは別系統の「石田小山田氏」
- 〈小山田昌行〉高遠城の抗戦は武田方唯一の組織的抵抗
- 〈小山田昌行〉落城は天正10年3月2日(1582年4月3日)
- 〈織田信長〉比叡山焼き討ちで全山焼亡
- 〈織田信長〉髑髏の盃
- 〈織田信長〉出陣前に「敦盛」を舞った
- 〈織田信長〉「第六天魔王」を名乗った
- 〈織田信長〉最期の言葉「是非に及ばず」
- 〈豊臣秀吉〉生年は1536年元日か、1537年か
- 〈豊臣秀吉〉金ヶ崎で殿(しんがり)を務めた
- 〈豊臣秀吉〉「人たらし」だった
- 〈豊臣秀吉〉右手の指が六本あった
- 〈豊臣秀吉〉太閤検地と刀狩で兵農分離が完成