逸話一覧
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- 〈斯波詮直〉岩清水兄弟——弟は内通し、兄は殉じた
- 〈斯波詮直〉高水寺城落城——駆けつけたのはわずか50騎
- 〈斯波詮直〉落城後の行方——四つの説
- 〈斯波詮直〉そもそも「斯波詮直」という名は正しいのか
- 〈斯波詮直〉名門凋落の構図——なぜ「御所」は滅びたのか
- 〈南部晴政〉「政」の偏諱授与による一族統合
- 〈南部晴政〉津軽為信の離反と石川高信の最期
- 〈南部晴政〉信直「暗殺未遂」——毘沙門堂の待ち伏せ
- 〈南部晴政〉晴継急死——病死か、暗殺か
- 〈南部晴政〉没年3説——1582年か、1572年か、1581年クーデターか
- 〈南部晴政〉織田信長への駿馬・鷹の献上
- 〈南部信直〉晴政が毘沙門堂参詣中の信直を襲撃した(暗殺未遂事件)
- 〈南部信直〉津軽為信の独立を「みすみす許した」
- 〈南部信直〉八戸政栄が直参の朱印状を辞退し、宗家を立てた
- 〈南部信直〉盛岡城の築城を計画し、南部家を近世大名に変えた
- 〈九戸政実〉九戸氏は「南部家中最強」だったか
- 〈九戸政実〉晴継急死と大評定——「実親が当主になるはずだった」
- 〈九戸政実〉挙兵の動機——私怨か、独立領主の意地か
- 〈九戸政実〉「6万の再仕置軍 対 5千の籠城軍」
- 〈九戸政実〉「秀吉方は最初から騙し討ちを計画していた」か
- 〈九戸政実〉「反乱」ではなく「一揆・合戦」——呼称見直し
- 〈安東愛季〉安倍貞任の後裔で「日之本将軍」の名族
- 〈安東愛季〉両安東氏を「戦わずして」統一した
- 〈安東愛季〉戸沢盛安と対陣中、陣中に没した
- 〈安東愛季〉由利を制し、酒田まで攻め込んだ
- 〈安東愛季〉浅利勝頼を酒宴に招いて謀殺した
- 〈安東愛季〉「秋田」に改姓し「秋田城介」を名乗った
- 〈安東実季〉13歳の150日籠城 — 湊合戦
- 〈安東実季〉抗議の「伊駒」改姓?
- 〈安東実季〉朝熊蟄居の理由 — 4つの説
- 〈蠣崎慶広〉主史料『新羅之記録』のバイアス
- 〈蠣崎慶広〉蠣崎氏はコシャマインの戦いの武田信広に始まる
- 〈蠣崎慶広〉1590年の秀吉謁見で安東氏から「独立」した
- 〈蠣崎慶広〉朱印状をアイヌ語に訳し「背けば十万の兵」と告げた
- 〈蠣崎慶広〉蝦夷錦の唐衣をその場で脱いで家康に献上した
- 〈蠣崎慶広〉九戸政実の乱にアイヌの兵と毒矢部隊で参陣した
- 〈蠣崎慶広〉豊臣方に通じた実子・由広を誅殺した
- 〈蠣崎季広〉講和は季広の功績か、主君・安東舜季の主導か
- 〈蠣崎季広〉長男・次男は長女に毒殺された
- 〈蠣崎季広〉南条広継は無実のまま連座自害させられた
- 〈蠣崎季広〉13人の娘を投入した婚姻戦略
- 〈蠣崎季広〉夷役はアイヌ支配の始まりか、対等な取引か
- 〈蠣崎季広〉従兄弟・蠣崎基広の謀反と呪詛
- 〈蠣崎季広〉「おまえは天下の将軍の臣となった」と息子を伏し拝んだ
- 〈蠣崎季広〉26人の子をもうけた「蝦夷の絶倫大名」
- 〈甲斐宗運〉義陽の首実検で落涙し「三年のうちに滅びる」と嘆いた
- 〈甲斐宗運〉内通した息子3人を粛清、嫡男の暗殺未遂も許した
- 〈甲斐宗運〉遺言「矢部に籠って天下人の到来まで持ちこたえよ」
- 〈甲斐宗運〉且過瀬の戦いの「酒盛り奇襲」
- 〈甲斐宗運〉没年は1583年か、1584年か
- 〈大友義統〉耳川の戦いは宗麟の暴走だった
- 〈大友義統〉耳川後の家中統制の失敗
- 〈大友義統〉神社仏閣の破壊は義統が主導した?
- 〈大友義統〉小西行長を「見殺し」にして改易
- 〈大友義統〉吉弘統幸の諫言と西軍参加の動機
- 〈阿蘇惟豊〉「両大宮司」の並立
- 〈阿蘇惟豊〉万坂峠の戦い — 伏兵とほら貝の殲滅戦
- 〈阿蘇惟豊〉後奈良天皇宸筆「般若心経」の受納(1540)
- 〈阿蘇惟豊〉公家・二条尹房との交流
- 〈相良頼房〉人質を「くじ引き」で決めた
- 〈相良頼房〉関ヶ原前から犬童頼兄が井伊直政と内通していた
- 〈相良頼房〉晩年、大垣城で殺した諸将と石田三成の供養を命じた
- 〈相良頼房〉竹下監物事件と深水一族73名誅殺
- 〈長野業正〉12人(13人とも)の娘の婚姻で西上野国衆連合を築いた
- 〈長野業正〉河越夜戦に参戦し、長男・吉業が戦傷死した
- 〈長野業正〉剣聖・上泉信綱が業正・業盛父子に仕えた
- 〈長野業正〉小田井原の戦い(1547)で憲政を諫めて参陣を拒んだ
- 〈小田政治〉小田成治の実子(三男・末子)
- 〈小田政治〉結城氏との宿命の対決
- 〈小田政治〉上杉朝興と組んで北条に対抗した
- 〈小田政治〉河越夜戦に菅谷隠岐守を派遣した
- 〈小田政治〉妹を佐竹義篤に嫁がせた
- 〈小田政治〉従四位上・左近衛中将だった
- 〈小田政治〉「小田氏中興の祖」は本当か
- 〈結城晴朝〉分国法『結城氏新法度』を受け継ぎ運用した
- 〈結城晴朝〉「最弱」小田氏治に平塚原で大敗した
- 〈結城晴朝〉天正15年頃、実は一度朝勝に家督を譲っていた
- 〈結城晴朝〉秀康の養子縁組は晴朝側から働きかけた
- 〈里見義堯〉第一次国府台合戦「見殺し」説
- 〈里見義堯〉三浦三崎の戦い — 里見水軍の勝利(1556)
- 〈里見義堯〉「槍大膳」正木時茂は忠臣だった
- 〈里見義堯〉日我上人を通じた和議拒否
- 〈里見義弘〉第二次国府台合戦は実は「二度の合戦」だった
- 〈里見義弘〉青岳尼を鎌倉太平寺から「連れ出した」恋物語
- 〈里見義弘〉「安房を義頼に、上総を梅王丸に」の分割遺言
- 〈里見義弘〉里見水軍は江戸湾の制海権を握っていた
- 〈千葉胤富〉親胤暗殺と「胤富黒幕説」
- 〈千葉胤富〉原・高城は「家臣」だったのか
- 〈千葉胤富〉本佐倉城の最盛期は胤富の事業か
- 〈千葉胤富〉家督は生前に譲った
- 〈千葉邦胤〉神流川の戦い・甲斐若御子に従軍した
- 〈千葉邦胤〉遺児・重胤は家督を「奪われた」
- 〈武田信廉〉信玄の影武者を務めた
- 〈武田信廉〉信玄死後、なりすまして軍を帰還させた
- 〈武田信廉〉「束帯天神図」の隠し落款
- 〈武田信廉〉川中島以後、親族衆筆頭・軍役80騎
- 〈武田信廉〉長篠で「戦わず逃げた」
- 〈穴山梅雪〉川中島で信玄本陣を守った
- 〈穴山梅雪〉弟・信嘉は義信事件に連座して自害した
- 〈穴山梅雪〉長篠で「無断退却」した卑怯者