〈蠣崎慶広〉豊臣方に通じた実子・由広を誅殺した
慶長19年(1614)、大坂の陣を前に四男・由広を豊臣内通の疑いで誅殺したことは諸記録が伝え、大枠は史実扱いが通例。ただし内通が事実だったのか、忠誠を疑われないための予防的粛清だったのかは確定できない。豊臣・徳川双方に足場を作る「両賭け」の切断処理とみる解釈もある。息子の命より家の存続を取った冷徹さを示す事件。初出:『新羅之記録』、松前家記録。
慶長19年(1614)、大坂の陣を前に四男・由広を豊臣内通の疑いで誅殺したことは諸記録が伝え、大枠は史実扱いが通例。ただし内通が事実だったのか、忠誠を疑われないための予防的粛清だったのかは確定できない。豊臣・徳川双方に足場を作る「両賭け」の切断処理とみる解釈もある。息子の命より家の存続を取った冷徹さを示す事件。初出:『新羅之記録』、松前家記録。