逸話一覧
3,432件(24/35ページ)
- 〈小山田信有〉「信有」3代の混同問題
- 〈小山田信有〉弥三郎信有=小山田信茂 同一人物説
- 〈小山田信有〉第四次川中島の「ヨコイレ」
- 〈小山田信有〉谷村館(谷村城)と郡内支配
- 〈小山田信有〉26歳の死と家督継承
- 〈小山田信有〉『小田原衆所領役帳』と先祖の地・小山田庄
- 〈大井貞隆〉長窪大井氏の出自 — 貞隆はどの系統か
- 〈大井貞隆〉Wikipediaの「前半生」は同名別人の事績か
- 〈大井貞隆〉長窪城主として小県進出拠点を担った
- 〈大井貞隆〉信虎の佐久侵攻と諏訪頼重の長窪城奪取
- 〈大井貞隆〉最期 — 幽閉死か、自害か、処刑か
- 〈大井貞隆〉村上義清との関係
- 〈飯富虎昌〉実名は本当に「虎昌」か
- 〈飯富虎昌〉「赤備え」の元祖
- 〈飯富虎昌〉山県昌景が赤備えを直接継承した
- 〈飯富虎昌〉第四次川中島で妻女山別働隊の大将
- 〈飯富虎昌〉武田義信の傅役だった
- 〈飯富虎昌〉弟(甥)の山県昌景が信玄に密告した
- 〈飯富虎昌〉義信を守るため一身に責を負った
- 〈飯富虎昌〉信虎追放のクーデターに加担した
- 〈仁科盛信〉諱は「晴清」だった
- 〈仁科盛信〉信玄が仁科盛政を誅殺し、盛信を押し込んだ
- 〈仁科盛信〉盛信を信玄の後継とする構想があった
- 〈仁科盛信〉「城兵3千対織田軍5万」で戦った
- 〈仁科盛信〉首は京都に晒され、胴体は領民が葬った
- 〈仁科盛信〉「武田家最後の名将」と呼ばれた
- 〈穴山信友〉穴山氏は武田信武の子・義武を祖とする武田庶流
- 〈穴山信友〉信虎期の穴山氏は武田に抵抗しつつ従属した
- 〈穴山信友〉金山経営で河内の経済を支えた
- 〈穴山信友〉快川紹喜と穴山家の関係
- 〈穴山信友〉酒豪で、泥酔して外交交渉を台無しにした
- 〈穴山信友〉桶狭間後、今川氏真との同盟継続を確認した
- 〈土屋昌次〉兄の横死を機に信玄側近へ/奥近習六人衆
- 〈土屋昌次〉第四次川中島(1561)初陣・本陣防衛
- 〈土屋昌次〉川中島の戦功で土屋家を継いだ
- 〈土屋昌次〉三方ヶ原で鳥居忠広と一騎打ち
- 〈土屋昌次〉信玄臨終に陪席、殉死を願い諫止される
- 〈土屋昌次〉信玄の遺骸を屋敷で荼毘に付した
- 〈土屋昌次〉長篠で決戦回避を諫言した
- 〈内藤昌月〉高遠遠征と実家保科氏との連携
- 〈内藤昌月〉没年はいつか — 1588年か、1590年か
- 〈内藤昌月〉生年1550年・享年39
- 〈内藤昌月〉養父の実名は「昌豊」ではなく「昌秀」
- 〈根津甚八〉モデルは禰津政直(甚八郎)系の武士である
- 〈根津甚八〉モデルは浅井井頼である
- 〈根津甚八〉大坂の陣で禰津一族が討死した
- 〈根津甚八〉禰津昌綱は上田合戦の最中に昌幸と囲碁を打っていた
- 〈鈴木重秀〉「孫一」は一人ではない——複数人問題
- 〈鈴木重秀〉雑賀衆は「鉄砲傭兵集団」だった
- 〈鈴木重秀〉信長の雑賀攻めを撃退した
- 〈鈴木重秀〉蓮乗寺の「孫市の墓」に眠る
- 〈鈴木重朝〉石山合戦の「孫一」重秀の子である
- 〈鈴木重朝〉小田原征伐の忍城攻めに参加した
- 〈鈴木重朝〉元忠を討ったのは子・重次だとする記録
- 〈鈴木重朝〉元忠の具足を遺児に返そうとし、逆に譲られた
- 〈鈴木重朝〉伊達政宗に庇護され、仲介で家康に赦された
- 〈鈴木重朝〉重朝自身が「雑賀孫市」を名乗った
- 〈長尾政景〉和睦の証として謙信の姉・仙桃院を娶った
- 〈長尾政景〉反乱で坂戸城は落城寸前まで攻められた
- 〈長尾政景〉宇佐美定満は政景と同船し、共に死んだ
- 〈長尾政景〉真犯人は下平吉長だった
- 〈長尾政景〉引き揚げた遺骸の肩下に刀傷があった
- 〈長尾政景〉溺死したのは信州の野尻湖である
- 〈神余親綱〉天文22年(1553)、謙信初上洛で後奈良天皇拝謁を実現させた
- 〈神余親綱〉天正5年(1577)、三条城主に抜擢された
- 〈神余親綱〉御館の乱で当初は景勝方に付き、のち景虎方に転じた
- 〈神余親綱〉「三条手切」— 防備強化を景勝に疑われて決裂した
- 〈神余親綱〉安房の神余氏の末裔である
- 〈神余親綱〉官途は「隼人佐」、祖父・父と三代で雑掌を世襲した
- 〈甘粕景継〉酒田の民政 — 水路開削・米倉・開田
- 〈甘粕景継〉なぜ城を留守にしたのか
- 〈甘粕景継〉留守居・登坂勝乃と城内の悲劇
- 〈甘粕景継〉「故あって自害」— 最期の謎
- 〈甘粕景継〉次男ルイス信綱の殉教と列福(2007)
- 〈柿崎景家〉「越後七郡に並ぶ者なし」の評
- 〈柿崎景家〉第四次川中島の一番槍
- 〈柿崎景家〉小田原城攻め・関東出兵の武功
- 〈柿崎景家〉織田信長への内通で謙信に誅殺された
- 〈柿崎景家〉没年はいつか——3説並立
- 〈柿崎景家〉子・晴家は御館の乱で殺された
- 〈直江景綱〉謙信の「右筆(書記官)」だった
- 〈直江景綱〉越中出兵で活躍した
- 〈直江景綱〉晩年に出家して「酒椿斎」と号した
- 〈直江信綱〉総社長尾家からの婿入りの経緯
- 〈直江信綱〉手取川の戦い(1577)への参戦
- 〈直江信綱〉御館の乱・春日山城本丸確保への関与
- 〈直江信綱〉与板衆を動員した景虎派討伐
- 〈直江信綱〉春日山城での横死(1581)
- 〈直江信綱〉脇差で応戦し、秀広に手傷を負わせた
- 〈直江信綱〉「信綱がいなければ兼続の直江家もない」
- 〈直江信綱〉清融阿闍梨は信綱の子か
- 〈河田長親〉日吉大社の稚児として謙信に見出された美少年
- 〈河田長親〉古志長尾家の名跡を与えられたが長尾姓を辞退した
- 〈河田長親〉「長親」の名は謙信の命名(「長」は武運長久に通じる)
- 〈河田長親〉信長から「近江一国を与える」と誘降されたが拒否した
- 〈河田長親〉出世を聞いた近江の河田一族が越後へ移住した
- 〈河田長親〉松倉金山を経営し上杉家の財政を支えた
- 〈色部勝長〉川中島で柿崎景家の危機を救った
- 〈色部勝長〉村上城包囲の陣中、本庄繁長の夜襲で討死した
- 〈色部勝長〉謙信が血判起請文で「一生の忠信」を誓った相手