〈内藤昌月〉高遠遠征と実家保科氏との連携
北条方に転じた保科父子の高遠城奪還は「昌月の支援を得て」行われたとされ、昌月自身も高遠へ遠征、8月には甲斐へ向かった。徳川方へ転じた兄と北条方に残った昌月の分岐を「意図的な両属戦略」とみる解釈は後世の推測で、史料的裏付けはない。高遠城の内藤家臣の兵500が追い出されたという話は『赤羽記』由来で諸説。
北条方に転じた保科父子の高遠城奪還は「昌月の支援を得て」行われたとされ、昌月自身も高遠へ遠征、8月には甲斐へ向かった。徳川方へ転じた兄と北条方に残った昌月の分岐を「意図的な両属戦略」とみる解釈は後世の推測で、史料的裏付けはない。高遠城の内藤家臣の兵500が追い出されたという話は『赤羽記』由来で諸説。