〈教如〉利休の茶会に通い、古田織部に学んだ茶人だった
豊臣政権期の千利休の茶会への頻繁な出席、古田織部への師事と織部茶会記への正客としての参席(慶長4年〜18年に多数)が記録される。遺品の茶入「本願寺肩衝」は死後に京都所司代板倉勝重への訴えと鑑定騒動が起きるほどの名物だった。徹底抗戦の武闘派イメージとは異なる、一流の文化人としての顔である。
豊臣政権期の千利休の茶会への頻繁な出席、古田織部への師事と織部茶会記への正客としての参席(慶長4年〜18年に多数)が記録される。遺品の茶入「本願寺肩衝」は死後に京都所司代板倉勝重への訴えと鑑定騒動が起きるほどの名物だった。徹底抗戦の武闘派イメージとは異なる、一流の文化人としての顔である。