〈菅沼定盈〉今川氏真による人質処刑

永禄4年(1561)に定盈らが松平方へ走った報復として、今川氏真は吉田城下(龍拈寺口)で菅沼・西郷・富永ら離反国衆の人質を処刑したと伝わり、定盈の縁者も含まれたとされる。初出は『松平記』等の松平側記録。処刑自体は複数の記録が伝えるが、人数・対象・定盈側の犠牲者の特定には史料差が大きい。氏真の強硬策が東三河国衆の離反を加速させた文脈で語られる。

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