〈佐久間信盛〉三方ヶ原で平手汎秀を「見殺し」にした

元亀3年(1572)、援軍の将として大敗の中を早期離脱し、平手汎秀が戦死したのは事実。折檻状第17条で信長自身が8年越しに非難した。だが27,000の武田軍に連合11,000で敗戦は不可避であり、3,000の兵を保全して帰還させた判断は軍事的に合理的との擁護論も強い。「見殺し」は信長側の総括である。

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