〈島津義弘〉伏見城の「入城拒否」で西軍についた
家康の依頼で伏見城守備に駆けつけたのに、守将鳥居元忠に「聞いていない」と拒否され、やむなく西軍についた——という有名な話の出どころは島津側の編纂物(『島津家譜』等)。慶長5年8月の毛利輝元書状には義弘が伏見城攻めで「大手柄」を立てたとあり、「不本意な参加」の筋書きと矛盾する。関ヶ原後の島津側の弁明文脈で強調された可能性が指摘されるが、当初東軍方として行動する予定だった形跡自体はあり、全否定もできない。
家康の依頼で伏見城守備に駆けつけたのに、守将鳥居元忠に「聞いていない」と拒否され、やむなく西軍についた——という有名な話の出どころは島津側の編纂物(『島津家譜』等)。慶長5年8月の毛利輝元書状には義弘が伏見城攻めで「大手柄」を立てたとあり、「不本意な参加」の筋書きと矛盾する。関ヶ原後の島津側の弁明文脈で強調された可能性が指摘されるが、当初東軍方として行動する予定だった形跡自体はあり、全否定もできない。