〈島津義弘〉豊久と長寿院盛淳、身代わりの死
甥の島津豊久が烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らの追撃を引き受け討死したとするのが通説だが、重傷を負い勝地峠方面へ落ちて没したとする説もある(遺体未確認)。家老の長寿院盛淳が義弘拝領の陣羽織を着け「島津義弘」と名乗って影武者となり討死したという話は島津側記録で、細部は編纂物由来。追撃側の井伊直政が狙撃で重傷を負ったことは徳川側記録からも確認できる。
甥の島津豊久が烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らの追撃を引き受け討死したとするのが通説だが、重傷を負い勝地峠方面へ落ちて没したとする説もある(遺体未確認)。家老の長寿院盛淳が義弘拝領の陣羽織を着け「島津義弘」と名乗って影武者となり討死したという話は島津側記録で、細部は編纂物由来。追撃側の井伊直政が狙撃で重傷を負ったことは徳川側記録からも確認できる。