〈太田資正〉謙信との絶交と和解
越相同盟をめぐる対立から元亀元年(1570)3月、謙信は絶交状(上杉神社文書「謙信公御書」)を送った。のち謙信は後悔し、山吉豊守・河田長親を介して交渉が再開、天正3年(1575)に佐竹を含む最終和解が成立。上杉・佐竹・里見同盟の締結には資正の奔走があった。絶交も和解も一次史料で追える。
越相同盟をめぐる対立から元亀元年(1570)3月、謙信は絶交状(上杉神社文書「謙信公御書」)を送った。のち謙信は後悔し、山吉豊守・河田長親を介して交渉が再開、天正3年(1575)に佐竹を含む最終和解が成立。上杉・佐竹・里見同盟の締結には資正の奔走があった。絶交も和解も一次史料で追える。