〈相馬盛胤〉隠居後も第一線に立ち続けた
天正6年(1578)の隠居・家督譲渡は諸記録が一致。以後も駒ヶ嶺救援出陣(1589)、潼生淵の殿軍(1590)、対伊達方針の軍議主宰など、60歳を過ぎても軍事・政治の中心にあった。さらに慶長5年(1600)の「一通齋明覺」署名書状が『伊達家文書』(大日本古文書)に現存し、72歳の隠居が外交文書を発給していたことは一次史料で確認できる。実質的な父子二頭体制だった。
天正6年(1578)の隠居・家督譲渡は諸記録が一致。以後も駒ヶ嶺救援出陣(1589)、潼生淵の殿軍(1590)、対伊達方針の軍議主宰など、60歳を過ぎても軍事・政治の中心にあった。さらに慶長5年(1600)の「一通齋明覺」署名書状が『伊達家文書』(大日本古文書)に現存し、72歳の隠居が外交文書を発給していたことは一次史料で確認できる。実質的な父子二頭体制だった。