〈保科正俊〉正俊は「高遠城主」だった
ゲームや通俗紹介に散見されるが誤り。武田時代の高遠城主は秋山虎繁→武田勝頼(永禄5年頃–)→武田信廉(元亀元年頃–)→仁科盛信(天正9年–)と武田一門・重臣が務めた(武田信廉ページと整合)。正俊は高遠一帯を地盤とする国衆・先方衆であって城主ではない。保科氏が高遠城主となるのは天正壬午の乱(1582)で正直が奪回・入城してから。1585年の留守居勝利(鉾持除)が「城主」イメージを補強したとみられる。
ゲームや通俗紹介に散見されるが誤り。武田時代の高遠城主は秋山虎繁→武田勝頼(永禄5年頃–)→武田信廉(元亀元年頃–)→仁科盛信(天正9年–)と武田一門・重臣が務めた(武田信廉ページと整合)。正俊は高遠一帯を地盤とする国衆・先方衆であって城主ではない。保科氏が高遠城主となるのは天正壬午の乱(1582)で正直が奪回・入城してから。1585年の留守居勝利(鉾持除)が「城主」イメージを補強したとみられる。