〈北条氏綱〉鶴岡八幡宮焼失は「氏綱の罠」だった
大永6年(1526)の里見軍鎌倉乱入について「氏綱があえて誘い込み、責任と復興費を小弓公方に負わせた罠」とする叙述が通俗書・ネット記事に見られるが、「罠」の一次史料はない。焼失後に義明側が復興に協力し和睦に向かったのは事実で、「結果を外交的に最大限利用した」までが史実寄りの評価である。
大永6年(1526)の里見軍鎌倉乱入について「氏綱があえて誘い込み、責任と復興費を小弓公方に負わせた罠」とする叙述が通俗書・ネット記事に見られるが、「罠」の一次史料はない。焼失後に義明側が復興に協力し和睦に向かったのは事実で、「結果を外交的に最大限利用した」までが史実寄りの評価である。