〈最上義守〉「中野義時」は実在したのか — 実在論争

義守の次男とされ、乱後に義光に攻められ自害したと語られる中野義時。その名の史料上の初出は乱から2世紀以上のちの寛政4年(1792)成立『稽補出羽国風土略記』で、同時代史料には全く見えない。「弟殺し」の挿話に至っては大正時代以降の書物にしか登場しない。実在は今日ほぼ否定的だが、光明寺本最上系図の「中野殿」や両所宮の伝承、『伊達輝宗日記』の「中野某」記事から、義光に弟がいた可能性までは否定されていない(松尾剛次氏)。

関連