〈尼子晴久〉「祖父に劣る凡将」だった

「凡将」像の源泉は(1)郡山城の大敗、(2)新宮党粛清=謀略に踊らされたという『陰徳太平記』的説話、(3)死後5年余での没落の3点。しかし(1)は救援出兵の再評価が進み、(2)の謀略説は否定的、(3)は改革半ばの急死という不運の側面が大きい。月山富田城防衛、8カ国守護、対毛利勝利、銀山確保、奉行衆制、経済政策、文化事業——長谷川博史氏(2000)以降、晴久期を尼子氏の最盛期・確立期とする見方が定着しつつある。

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