〈豊臣秀長〉千利休との「二本柱」
宗麟書状は政権運営が「公儀=秀長/内々=利休」の二本柱で回っていたことを当事者証言として示す。秀長の死の約1か月後に利休が切腹に追い込まれたことから「一方の柱が折れて利休も庇護を失った」とする見方が古くから有力。ただし両者の緊密な個人的連携を直接示す史料は少なく、因果関係は状況証拠による解釈である。
宗麟書状は政権運営が「公儀=秀長/内々=利休」の二本柱で回っていたことを当事者証言として示す。秀長の死の約1か月後に利休が切腹に追い込まれたことから「一方の柱が折れて利休も庇護を失った」とする見方が古くから有力。ただし両者の緊密な個人的連携を直接示す史料は少なく、因果関係は状況証拠による解釈である。