〈本多正信〉上田城攻めをやめ西上を急げと秀忠に進言
慶長5年(1600)9月、真田昌幸の上田城攻めに固執する秀忠に「城は押さえの兵を残して捨て置き、関ヶ原への合流を急ぐべし」と進言したが容れられなかった、という。初出は『徳川実紀』等の幕府編纂物・諸家の覚書(『大久保家留書』ほか)。秀忠遅参の主因は近年、大雨による河川増水・過密な行軍日程・家康からの指示伝達の遅れなど複合的に説明されており、「進言を聞かなかったから遅参した」という単純な因果は後世の整理と考えるべき。
慶長5年(1600)9月、真田昌幸の上田城攻めに固執する秀忠に「城は押さえの兵を残して捨て置き、関ヶ原への合流を急ぐべし」と進言したが容れられなかった、という。初出は『徳川実紀』等の幕府編纂物・諸家の覚書(『大久保家留書』ほか)。秀忠遅参の主因は近年、大雨による河川増水・過密な行軍日程・家康からの指示伝達の遅れなど複合的に説明されており、「進言を聞かなかったから遅参した」という単純な因果は後世の整理と考えるべき。