〈松平信康〉五徳の「十二ヶ条の訴状」と酒井忠次の弁明

訴状の実物は現存せず、女性の書状の書式と合わないという指摘もある。忠次が天正7年に安土へ使者として赴いたこと自体は事実とみられるが、その目的は「訴状への弁明」ではなく事件処理をめぐる織田側との調整だった可能性が高い。「弁明しなかった男」像は信長命令説とセットになった後世の物語とみるべきで、弁明の実否は史料上確認できない。

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