〈北条氏政〉三増峠で信玄に敗れた
永禄12年(1569)、撤退する武田軍を三増峠で挟撃しようとして崩れ、離脱を許した。戦い自体は史実だが、損害数値は軍記由来で確定できず、武田側も浅利信種戦死など相応の損害を出した。作戦主体は現地の氏照・氏邦の部隊で、氏政本隊は決戦に間に合わなかった。「氏政の失態」とまで言えるかは評価が分かれる。
永禄12年(1569)、撤退する武田軍を三増峠で挟撃しようとして崩れ、離脱を許した。戦い自体は史実だが、損害数値は軍記由来で確定できず、武田側も浅利信種戦死など相応の損害を出した。作戦主体は現地の氏照・氏邦の部隊で、氏政本隊は決戦に間に合わなかった。「氏政の失態」とまで言えるかは評価が分かれる。