〈最上義守〉天正最上の乱の原因は「次男・義時への家督継承」なのか

乱の経過(天正2年1月の義守の援軍要請、伊達輝宗の出兵、9月10日の和議、11月の父子和議)は一級史料『伊達輝宗日記』で確認できる。しかし「義時偏愛・擁立が原因」説は一次史料に一切現れず、江戸後期以降の編纂物に由来する。近年は「義光の家中統制強化に反発した国人・家臣団が、隠居の義守を擁して起こした反乱」とする粟野説の再解釈が有力。義守は「老いて息子を妬んだ暗君」ではなく「担がれた旗頭」だった可能性が高い。

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