〈伊東義益〉「都於郡の当主」は何をしていたか
義益期の大事業(飫肥攻略・真幸院攻略・四十八城体制)は義祐主導で語られ、義益名義の発給文書や具体的治績はほとんど知られていない。累代の本城=当主権威の所在(都於郡)と実権(佐土原)の分離という体制を示すのが実態で、「英明の若殿が領国を治めた」と断定はできない。一条家との婚姻など「当主の格式」に関わる部分が担当領域だったと解釈できる。初出:『日向記』、都於郡城関係の解説。
義益期の大事業(飫肥攻略・真幸院攻略・四十八城体制)は義祐主導で語られ、義益名義の発給文書や具体的治績はほとんど知られていない。累代の本城=当主権威の所在(都於郡)と実権(佐土原)の分離という体制を示すのが実態で、「英明の若殿が領国を治めた」と断定はできない。一条家との婚姻など「当主の格式」に関わる部分が担当領域だったと解釈できる。初出:『日向記』、都於郡城関係の解説。