〈大野治胤〉堺衆に引き渡されて火刑 — 処刑地三説
堺の人々が平重衡の先例を引いて板倉勝重に身柄を訴え、6月27日に火刑とされたことは事典類が採録する。処刑地には(a)堺の北の刑場(月蔵寺の縁起)、(b)浜辺の並松広場(伝承)、(c)京都三条河原で斬首(『三河物語』系統)の三説がある。「被害者である堺衆の手で処刑された」という大筋は諸史料が一致する。
堺の人々が平重衡の先例を引いて板倉勝重に身柄を訴え、6月27日に火刑とされたことは事典類が採録する。処刑地には(a)堺の北の刑場(月蔵寺の縁起)、(b)浜辺の並松広場(伝承)、(c)京都三条河原で斬首(『三河物語』系統)の三説がある。「被害者である堺衆の手で処刑された」という大筋は諸史料が一致する。