〈竹中半兵衛〉主君を諫めるため稲葉山城を乗っ取った
永禄7年(1564)2月6日の城占拠と斎藤飛騨守ら6名殺害は同時代史料(荘厳講記録、快川紹喜書状写)で確認できる史実。だが「暗君への諫言の義挙」という枠組みは『甫庵太閤記』以降の顕彰による後付け。実質的主導者は舅・安藤守就で、実態は西美濃国衆による権力闘争だった(木下聡氏)。当サイトの斎藤龍興ページと同一判定。
永禄7年(1564)2月6日の城占拠と斎藤飛騨守ら6名殺害は同時代史料(荘厳講記録、快川紹喜書状写)で確認できる史実。だが「暗君への諫言の義挙」という枠組みは『甫庵太閤記』以降の顕彰による後付け。実質的主導者は舅・安藤守就で、実態は西美濃国衆による権力闘争だった(木下聡氏)。当サイトの斎藤龍興ページと同一判定。