〈前田利長〉母・芳春院を人質に出した — 屈服か英断か

慶長5年(1600)5月、芳春院が人質として江戸へ下ったことは史実で、人質生活は利長の死の直後まで約14年に及んだ。従来「家康への屈服」と評され、交戦を主張する利長を母が宥めたという家伝も流布するが、当初交戦派だったのは利長自身で、豊臣家に救援を断られて回避に転じたとする経過が通説。近年は、豊臣公儀が前田を守らないことを見切った上での領国保全の合理的選択とみる(大西泰正氏)。利家ページの検証と同判定。

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