〈荒木村重〉尼崎への移動は「妻子を捨てた単身逃亡」か
天正7年9月2日に有岡城を出て尼崎城へ移ったこと自体は史実。従来は「5〜6人の供だけの敵前逃亡」とされたが、天野忠幸氏は毛利方の乃美文書(9月11日付村重書状)を根拠に600〜700の軍勢を率いた組織的移動だったと指摘。海に面した尼崎は毛利水軍・本願寺との補給結節点で、軍事的に合理的な「戦略的移動」説が有力化している。織田方との「尼崎・花隈を差し出せば妻子を助ける」交渉が実在したことも史実で、これに応じられなかった結果が処刑につながった。
天正7年9月2日に有岡城を出て尼崎城へ移ったこと自体は史実。従来は「5〜6人の供だけの敵前逃亡」とされたが、天野忠幸氏は毛利方の乃美文書(9月11日付村重書状)を根拠に600〜700の軍勢を率いた組織的移動だったと指摘。海に面した尼崎は毛利水軍・本願寺との補給結節点で、軍事的に合理的な「戦略的移動」説が有力化している。織田方との「尼崎・花隈を差し出せば妻子を助ける」交渉が実在したことも史実で、これに応じられなかった結果が処刑につながった。