〈徳川秀忠〉家康が激怒し、対面も許さなかった
対面拒否エピソードの初出は『徳川実紀』等の後世編纂物。家康の不興は「遅参」そのものより「急行軍で軍を疲弊させた」統率面を問題にしたとする理解が有力である。政治的失脚の事実はなく、直後の慶長6年に大納言、慶長8年に右近衛大将と、後継者の地位はむしろ着実に強化された。
対面拒否エピソードの初出は『徳川実紀』等の後世編纂物。家康の不興は「遅参」そのものより「急行軍で軍を疲弊させた」統率面を問題にしたとする理解が有力である。政治的失脚の事実はなく、直後の慶長6年に大納言、慶長8年に右近衛大将と、後継者の地位はむしろ着実に強化された。